【熊である】




時折勘違いされる事なのだが――
 フェンリー・ヴェッドという男は柔軟な発想を持った寛容な人間、ではない。
 割によく笑うし、冗談も好む、言い回しもどこか芝居がかっていて、気障な印象を与える事もあるのかもしれない。
 そうあるべし、と彼はただそう生きている。それだけのことである。そういう人間が、騎士として在るべきであると、どこか愚直に考えているという、ただそれだけである。
 だから――本来堅物であるから、彼には女心が分からないし、一般的な芸術品の趣も殆どピンとこない。殆ど呼ばれない舞踏会の席で婦人の手を取り、部屋に帰ってから己の所作を苦慮する事もある。
 しかし、苦労して作った外側が外側だから、あまり付き合いの浅い人間にはただの変わり者だとか、案外話の分かる人間だとか、そういうやや横道に逸れた評価を受ける事になる。頑張り過ぎである。
 つまるところ概ね自業自得なのだが、しかし原因がどこにあろうと、その齟齬の弊害を真っ先に受けるのは彼自身であったりする。
 現に彼は、困っていた。
「親父殿にも困ったものだ……」
 なんとも殺風景な自室の机に向かって、誰にともなく呟く。殆ど使わない机はまだ瑞々しい色艶を保っていて、音を吸い込んでいくようだ。
 彼の趣味はせいぜいが東の島国に関する物品や文献の蒐集で、しかも放っておいても父が勝手に集めてくるから、彼自身の部屋には殆ど何も無い。暗い印象にならぬように壁は暖色だが、何も無いのでそれが余計に寒々しい。
 そんな寒々しい静寂を彼は心地良く思いながら、彼は思い悩む。
 来月、父と交友のある諸侯が、この領を尋ねるらしい。物見遊山という奴ではあるが、しかしフェンリーの父、オデッサ・ヴェッドの治める領地はどう大目に見てもそれに相応しいものではない。見るものがないのだ。
 父は変わった事が好きな人だったのもあり、ここで一計を案じた。
――フェンリーよ、お前、劇をやれ。
 フェンリーは稀に見るような美男子というわけでは勿論無いが、面長の精悍な顔つきではあったから舞台映えする、こういう時のために剣術は教えたんだから一丁派手にやれ、という事らしい。交友のある諸侯というの誰も彼もがたいそうな子だくさんで、子供受けするとも考えたようだ。
 剣を習ったのは劇をやるためでは勿論無いのだが。
 彼は父を尊敬もしていたし、なぜか余人には妙な顔をされる父の趣味を共有していた。遠い島国の文字を家名に充て、流派とするのはとてもよい考えだと思った。
 しかし、だからと言ってできないものは出来ない。「子供はよく遊ぶものだ」などと普段は理解のあるような事を言っている彼ではあるが、子供の趣味などとんと分からない。
 何をすれば子供受けするのかなど全く見当がつかないのだ。
 だから彼は、掃除などする。
 どうにも生真面目なのと、現実逃避がないまぜになった行為ではあるが、主に肉体派である彼の主たる思考法でもある。
 座して考えるより歩きながら考える、そういう男だ。
 しかし何も無い部屋であるから、自室の整理などすぐに終わってしまって暇つぶしにもならない。
 だから彼はどうしても落ち着かない時、女中の手伝いをしたりする。六つだか年上の彼女には毎度妙な顔をされて「仮にも未来の領主がなさる事ではありません」等と注意される。彼自身も異論はない。
 むしろ女中の領分を侵しているわけで後ろめたくすら感じるのだが、どうにもしようがない。
 結局「全く変わってらっしゃるんだから」などと言われて指示を出される。不器用だが力はあるのでそれなりに重宝はされるのだ。それが余計に後ろめたい。
 だから余計に体を動かす。女中の方も心得たもので、大抵は指示をする時以外は話しかけずに居てくれる――のだが。
「あら懐かしい。見てくださいよフェンリー様」
 その日は珍しく、野次馬な顔で彼女はそんなことを言った。様、と呼ばれるのは妙にくすぐったいが、昔はぼっちゃまだったので多少はマシである。
「何か?」
 多少面食らって応じると、彼女の手元には古い絵本が握られている。
「覚えていらっしゃいます? ほら丁度私が奉公して来た頃ですからフェンリー様五歳ですよ。読み聞かせてさし上げたじゃないですか懐かしいなぁ。私一人っ子でしたから弟が出来たみたいで嬉しかったんですよ。あら、すいません気安く弟だなんて」
 表情がころころ変わる。羨ましいとは思わないが、代わって欲しいと思うことはある。今回などはまさにそうだ。
「いや、そんなことを気にするほど短い付き合いでもないさ。勤勉でいい姉上だ、光栄だよ」
 そんなことを言うと、あらやだお世辞等と、満更でもない様子で手をぱたぱたと振る。感情表現が実に豊かで上手い。
 全く世辞というわけでもなし、付き合いは長いから遠慮するような相手でもないと思う、のだが多少おだててしまったせいか、彼女はやたらに昔の品物を取り出し始めた。
 掃除も何もあったものではない。尤も、フェンリーの介入によって随分と彼女に余計な暇を与えたのも事実である。
「これは童謡ですね。フェンリー様歌はあまりお上手でなくて、ああいえごめんなさい。とても可愛らしかったんですよ愛嬌があって」
 今でも殆ど歌えない。
 彼女が完全に手を休めてしまったので、フェンリーもそれに付き合う形になる。どことなく気取った応対は染み付いているのでそれ自体は苦にはならいが、後で悩むかも知れないなと思いながら聞いていて、ふと思い至った。
――そうか、子供か。
 なるべく疎かにならないように彼女の話を聞きながら、フェンリーは昔聴いた童謡の歌詞を諳んじていた。





「それで熊か。全くお前は馬鹿をやるな」
 親友が笑いを堪え……すらせずに訪ねて来たのは、かの劇を演じ終えて暫くしての事だった。
「そんな事を言うのはお前ぐらいだよ」
 憮然と返す。真実彼は変な奴とは言われてもそのまま馬鹿だのなんだのと言う輩はとりあえず居ない。
「お前さんの周りの連中は気がついてないか見ていないだけだよ」
 そんな彼に負けず変わり者の友人は笑いを含めながら更に減らず口を叩き、続ける。
「子供の立ち位置に立とうとして童話童謡を参考にする、ここまでは分かる。お前にしては面白い着眼点だよ。だが謎の剣士熊仮面はなかろうに」
「子供は喜んでいたさ」
「笑われていたんだアレは」
 そう言って一際大きく笑う。殺風景な部屋は笑い声のせいか暖色の味を取り戻している。
 フェンリーが彼なりに考えた劇の筋立ては勧善懲悪もので、領民を苦しめる悪の剣士を謎の覆面剣士が懲らしめるという、ありがちなものである。
 熊は絵本などでは可愛らしく扱われるし、それでいて戦えば強いから子供受けはよい、と彼なりに考えた末なのだが、どうにも合わない事をしたせいで細かい部分をどうしたかは殆ど覚えていない。唯一印象に残っているのは
――我が秘剣が通じぬとは、何たることだ。何故に敗れた!
――熊故に!
 こんなところである。意味が分からない。
「全く糞真面目に根ばかり詰めるからそんなことになるんだお前は。だがまぁ、直す必要はないぞ。そのままで居ろ」
 そう言って偉そうに腕を組む。そんな時の友人に父の背中に近い威風を感じたりする。父のように不得土の文字を背負いたいと言うと友人は決まって止めるのだが。
 フェンリーとは比べるべくもない虚弱な体を以てして威風とする、その友人は不敵に歯を見せた。
「根を詰めなくていい事は俺がしてやるさ。なんなら今、もっとくだらなくて面白い筋書きをくれてやろうか」
「そんなものを渡されても困るよ」
 ごく普通にそう返すと、友人は至極弱い力でフェンリーをぺしりと叩いた。指が妙な方向に曲がるのは常である。
「いいから強い人間であろうとすればいいんだお前は。弱いのは俺の領分だ。任せておけ」
 特に偉くもない事を偉そうに言う友人に、とりあえず指を何とかしろ、と返す。
 フェンリー・ヴェッド、十八歳のある日である。