《三者三様:思い出せない思い出》



 
夢を見た、気がした。
 
 
 
少女が、
青白い、やわらかい髪を伸ばした少女が、泣きそうな顔でしゃがみこんでいる、
その前に、横たわる一匹の猫、
夏の、日差しの強い日の事だ。
少女が幾ら揺さぶっても、猫は揺さぶられるままで、
その体は呼吸の為上下する事もなく、まるでぬいぐるみのように、そこに横たわるだけだった。
日傘を差した女性が少女に近寄って行く、
 
「スティ、どうしたの?」
「おかーさん」
 
震える声、
 
「ねこさんが、ねこさんがおきないんです」
 
猫は、詳しく見るまでもなく死んでいた。
外傷はなく、その体は前に見た時よりも随分と痩せこけていて、それを見て彼女は、
あぁ、きっとこの猫は病気か何かで弱っていて、その姿をこの子に見せまいと、
いつも一緒に居たこの子に見せまいと何処かへ姿をくらましていたのだな、
そして死ぬその時だけ、此処が自分の死に場と思ってこの体を引きずって、この家の庭まで来たのだな、と。
 
「ねこさんが、おきてっていってるのにおきないんです」
 
日傘を差した彼女は頬に手を当てて考える、
少女は瞳一杯に恐怖をたたえている、
しゃがんで、少女に目線を合わせる。
 
「スティ、ねこさんはね、遠くに行っちゃったの」
「とおく……もう、あえないですか?」
「そうね、暫くは、会えなくなってしまう、だからスティにね、ありがとう、って言いに来たのよ。
 猫さんはこれから、遠く、遠くに行かなきゃいけないけれども、でもほら、猫さんは悲しそうな顔も、辛そうな顔もしてないでしょう?」
 スティにね、今まで一緒に遊んでくれてありがとう、って、お別れする前にそれを言いに来たのよ、お別れする前にそれを言う事が出来たから、こんなに安らかな顔をしてるのね」
 
ぽろぽろと涙をこぼし始める我が子を見て、彼女は優しく微笑んで抱き寄せる。
 
「スティも、猫さんと一緒に居れて楽しかったでしょう?
 猫さんもきっと、同じ気持ちだったから、ありがとうを言いに来たんだと思うな」
 
涙で歪む視界、少女は母の懐に自分の顔を押し付けて。
 
 
 
 
目が覚めると目の前は枕だった。
顔を軽く上げて呼吸をしやすくしてから、あぁ、昨日はうつ伏せにベッドに飛び込んでそのまんま寝たんだったか、と思い出す。
視界が歪んでいるので、ぱたぱたと枕元に手をやり、メガネを探す、
メガネを見つけてかけてみるが、歪んだ視界が治らない。
「うぇー?」
寝ぼけたままふらふらと洗面所まで行き、顔を洗う。
タオルで顔を拭いて顔をあげてから、鏡を見て初めて、
ようやく自分がぽろぽろと泣いている事に気が付いた。
「え、何ですこれ」
涙は止まる様子が無く、ぽろぽろと零れ続けている、
「えー……最近泣きすぎじゃないですか、私」
ぽろぽろと、理由も分からず、思い出せず、ただ涙が流れていた。
 
 
 
 
 
 
《三者三様:この肌に残る暖かさ》
 
僕の事を遠くから呼ぶ声がする。
少女特有の甲高い声で遠くから駆けてくるのは僕の孫に他ならない。
その顔にいっぱいの笑顔をたたえて、あぁ、あの服は弟の服だろうか、今日もそんな恰好をしてしまって、
「アティア、いつもより早いね、今はお勉強の時間じゃあなかったのかい?」
「ボク、おじいちゃまに会いたくてね、先生にお願いして今日はお休みにしてもらっちゃった!」
あぁ、全く、と僕は溜息をつきながら、彼女を抱き寄せ、頭を撫でてやる。
「おじいちゃま、ボクが来たら迷惑だった?」
僕の溜息を聞いてそう思ってしまったのだろうか、そう聞いてくる。
「そんな事はないよ」
僕は微笑んで、アティアの額にキスをしてやり、強く強く抱きしめる。
「迷惑なんかじゃあない、迷惑なんかじゃあないさ」
だから困ってしまう。
この上なく大事だから、困ってしまう。
人を好きになればなるほど、僕はその人を通じて社会に関わらなければならなくなる。
そうして僕が社会に関われば関わるほど、僕を見て眉をひそめ、気を悪くする人間が増えてしまう。
その粘つく様な罪悪感。
僕の腕の中で、アティアは僕の事をその小さな体いっぱいで抱きしめ返してきて、僕の頬に口付けをする。
嗚呼。
「今日は、何のお話が聞きたいのかな?」
罪悪感を呑み込んで、僕はアティアに笑顔を向ける。
この子には、僕の罪悪感を背負わせてはいけない。
あの日、アデルの葬儀の日、
両手いっぱいに抱えても足りないくらいの感謝を、伝える事が出来なかった罪悪感も、
アデルの世話をまかせっきりにしてしまった娘への、愛を覆い隠すほどの罪悪感も、
全て呑み込もうとしていた時に、僕の隣に来て、その罪悪感を代わりに背負おうとした、この子には、
けれどもアティアは、何も言わなくても、僕が笑顔でいても、僕の顔を暫く見てから、何も言わずに僕を抱きしめてくる。
「……アティアは、甘えん坊だね」
僕は笑ってアティアの頭を撫でてやる。
 
何時か、アティアと僕は、離れなくてはならないだろう。
彼女が僕に依存しすぎるのは良くないし、僕が彼女に依存しすぎるのもまた、良くない。
せめて、僕が死ぬ前に、
僕が命を落とす前に彼女の前から姿を消さなければならない。
僕が死んだ事を彼女に知らせて、彼女を悲しませる事は、したくはない。
けれども、今はこのままでいる事が許されるだろうか。
今は、この暖かさの中に居る事が許されるだろうか。
 
 
 
 
目を開けると見上げていたのは天井だった。
ボクを包んでいた暖かさは、ただ、布団がボクの体温で温まった、それだけの事。
……夢を見た、
とても、とても懐かしい夢を見た。
「……あぁもう」
何と言う無様さだろう、こんな夢を見て、まだ、もっとその夢を見ていたいと思うなんて。
目が覚めた時に何で傍に居ないのと失望するだなんて、なんて少女的な、
夢を見て涙を流すだなんて、なんて、なんて惨めな、
脳の裏側がちりちりとするような、苛々した感情がボクを淡く包んだ。
ベッドから身を起こして、大量の水分を水さしから直接口の中へと流し込む、
何故かとても喉が渇いていた。
それは涙を流したせいだ、と言い聞かせようとして、自分が涙を流していた事実もまた、ボクの脳の裏側をちりちりと焼けつかせる。
窓を乱暴に開けるとぬるい風が吹き込んできた。
読みかけだった机の本がバサバサとページがめくれて、何処まで読んでいたのか分からなくなった。
風がボクの身体を透き通るように撫でていく。
風自体は気持ち良いとは言い難かったが、汗が引いて行くひんやりした感触は幾分か心地よかった。
暫く風に当たって、気持ちの整理をつける。
壁で風に揺れている帽子を手にとって、強く抱きしめた。
痒みに似たイライラが落ち着いてくるような気がした。
ある程度気持ちを落ちつけさせてから、窓を閉めて、ボクはもう一度ベッドに向かう、
今日はもう仕事をするような気分にはなれなかった。
こんなに落ち着かない日なのだから、もう一度暖かさに包まれて眠るのも悪くはないだろうと考えて。
その考えの裏を自分で推測し、自嘲気味の笑いが漏れる。
何て無様なんだろう、
帽子を抱えたまま、布団にもぐりこむ。
暖かさに包まれて、ベッドのシーツが腕にこすれるのが心地よい。
ボクはまたすぐ、まどろみの中に落ちていく、
今度は夢は見なかった。
 
 
 
 
 
 
《三者三様:愛していたから》
 
夜、イーサは暫く、目を覚ました後も寝ぼけたまま、夢の余韻に浸っていた。
あの夢はなんだったのだろう、と胡乱気な頭で考える。
意識がはっきりしてくるにつれて、
あれは私の両親の死の場面だ、と思い至った。
十年と少し、前の事。
あまりにもあっさりとその不幸は訪れた。
ただ、旅行の帰りに盗賊に襲われた、そんな必然性も何も無い不幸だった。
両親は死に、イーサ自身は奴隷として市場へと送られた。
イーサは無意識のうちに足首をさする、
足枷の跡が、まだ薄く付いている。
「どうした、マーガレット」
机の上に置かれていたペンダントがイーサに語りかけてくる。
「……あの、ね、夢、を、みたの」
「それは、えーと、悲しい夢か?」
姉が自分を気遣ってくれる事が嬉しくて、イーサは笑顔になる。
「悲しい、夢、だった……よ?」
「悲しい夢なのに何で笑ってんだよ」
「悲しかった……けれど、も」
けれどもこの夢は、と続ける
「とっても、ね、暖かい、夢、だった、な……って」
「あぁ? 何だそりゃ?」
「あの、ね……おとう、さん、と、おかあ、さん、が、死んだ、時、の、事、覚えて、ないけれど、夢に見たの」
エンゼルランプは黙りこくる、
きっと、私がその夢で悲しい思いをしただろう、と思ってくれているのではないか、とイーサは考える。
この人は優しい人だから、私の痛みを理解しようとしてくれる。
けれども違うのだ、
この夢は確かに哀しい夢だったけれど、痛々しい夢だったけれど、悲しんでその過去が変わる訳ではない、
それよりも、何よりも嬉しい事実がその夢で分かったから、イーサは笑ったままでいる。
「その、夢の、中で、ね……?」
「……あぁ」
「おとう、さん、と、おかあ、さんが、おねえちゃんにね、ごめんなさい、って」
あなたを生きた状態で産んであげられなくて、ごめんなさい、
今生きている、あなたと瓜二つになっただろうこの子の事も、これから見守ってあげられなくて、ごめんなさい、
あなたたちを幸せに出来なくて、ごめんなさい、
その謝罪は、親を知らなかった私達にとって、なんて痛い愛の言葉だろう。
だからイーサは、あまりにもその言葉が胸にきりきりと突きさすように痛むので、
自分の両親が、自分の姉を忘れないで、死んだ後もずっと愛していた事を知って、とても嬉しかったのだ。
「……何だよそれ」
ペンダントから聞こえる声は震えていた。
「そう言うのってよ、卑怯じゃねぇか……」
それっきり声は聞こえてこなくなった。
イーサはそれで、彼女は今全身全霊で泣いているんだろうな、と感じる。
涙を流す為の目も、
涙を拭う為の腕も、
悲しみにうち震わせる身体も無くて、
けれど彼女は意地っ張りだから、自分の妹の前で涙を見せるのは良しとしないだろうから、
だからイーサは、涙を流す為の目も、涙をぬぐうための腕も、悲しみにうち震わせる身体も、今は彼女には貸さない。
無言の、涙の無い、落涙、
それがきっと彼女にとって最後の尊厳、本当はイーサに対してずっとずっと申し訳なく思ってる彼女が、
唯一自分自身を姉だ、と認める事が出来る、その一線、絶対に弱みを表には出さない、という事。
暫く、外の虫の声しか聞こえてこなかった。